尾瀬あきら 『夏子の酒』第一巻

尾瀬あきら 『夏子の酒第一巻 』1988


『夏子の酒』は、東京で働く佐伯夏子が、実家の酒蔵と亡き兄の志に引き寄せられ、酒造りの世界へ踏み込んでいく物語です。尾瀬あきらは、酒を商品や嗜好品としてだけ描かず、米、水、土地、人の記憶が積み重なったものとして扱います。

一巻の見事さは、酒造りの知識を説明する前に、まず「場所」を読ませるところにあります。新潟の田んぼ、雪を思わせる空気、蔵の暗い床、巨大な桶、濡れた木の質感。夏子が帰ってきた町は、背景ではなく、彼女を黙って見ているもう一人の登場人物のようです。

序盤で特に良いのは、夏子が蔵に入る場面です。祖父が「夏子の生まれるずっとずっと昔から」と語るくだりで、蔵が単なる職場ではなく、時間をため込んだ器として立ち上がる。酒造りを題材にした漫画でありながら、最初に描かれるのは技術の解説ではなく、継がれてしまうものの重さです。

東京の広告会社の描写も効いています。大手酒造会社「金寿」の本醸造酒を扱う会議で、酒の味は「甘・辛・酸・苦・渋」だけでは言い尽くせない、と夏子の感覚が浮かび上がる。ここで作品は、マーケティングの言葉と、実際に飲んだ時の手触りをぶつけています。夏子が酒を「売る」側にいるからこそ、酒を「造る」側への距離がくっきり見える構成です。

兄・康男の死は、過剰に泣かせる場面として処理されません。仏間、蔵、田んぼの広がりが、残された人間の言葉よりも重く置かれる。とくに祖父が蔵の中で座り込むページは、喪失が個人の悲しみにとどまらず、家と土地の時間に穴をあける出来事として描かれています。

この巻で夏子はまだ「主人公らしく決意してすべてを変える人」ではありません。迷い、仕事に戻り、都市の生活の中で揺れ続ける。その弱さがいい。彼女の中にある酒への感受性は最初から特別ですが、それが使命になるまでには時間が必要で、その時間を作品は急がない。

酒米「龍錦」をめぐる兄の志も、単なる夢物語ではなく、農業と酒造りの接点として置かれています。米は原料である前に、土地に根を張る命であり、人が手をかけなければ消えていくもの。ここを押さえているから、酒蔵の再生が経営ドラマだけにならない。

派手な事件で引っ張る一巻ではありません。それでも読後に強く残るのは、酒を造るとは何を継ぎ、何に逆らい、何を待つことなのかという問いです。『夏子の酒』の第一巻は、主人公の出発を描きながら、同時に日本酒という題材そのものの奥行きを読者に開いてみせる、端正で力のある導入です。


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